決断のジレンマ
後戻りできない決断が続けられていく
ボクは、それを認識しながら、二元論的なしがらみにもがいている
どちらを採るにせよ後戻りできないし、正しさの庇護も受けられない
しかしながら、ボクが主張しているのは、常に過去の自分への弔いでしかなく
実は他者に対して送られるべきものではないのではないかという考えがうろついている
システムが、何かを契機にまわり始めて、なんとかかんとか運営できているものを
その始めに、(ボクが)許しがたい力が加わっていたことを暴いたつもりになることが
どこかしこかで、「社会的に」有意義な成果を生み出すのだろうか
思うに、最初に書いた二元論は、何かを始めてもよい/わるい、ということだったようだ
しかも、そんなこと問うのはナンセンスであることを薄々気づきながら(つまり、ボクは始める・始められる前には戻れないのだから)それでも、問わずにはいられないのは、言ってみれば、ただの懐古主義(いやいや、戻るべきところ*1もないから、やっぱりそうとも言えないかな)なのだろう
*1:前には戻れないのと、戻るところがないのは、密接に関係しているのかもしれない