実験

わが子に愛は通じる。僕はそう信じています。いかにも「胡散臭い」言い方になってしまったのは、別にねらったわけでも、皮肉を言いたいわけでもありません。
よくよく考えるまでもなく、僕は親に物をねだるって困らせることはありませんでした。もちろん、何でも買い与えられていたわけではありませんでした。ただ、「無駄なことはしない主義」のお子様だったのです。とはいえ、子供心に、わが信念を曲げることのできないこともあり、頑として親・大人に対抗することはありました。そのような信念からの対抗をただの「わがまま」として受け取らざるをえないことが多々あります。親は「現実」を知っていて、ユートピアを望む子どもを去勢せざるをえない、という事情や、はたまた、親・大人の論理からは、どうしても「わがまま」としてしか断じえないこともあります。
しかし、そのような、決定的に親・大人と子どもが分かりえぬときにこそ、親の愛が子どもに通じるのかを「実験」すべき決定的な瞬間なのです。
僕たちは、しばしば、「わがまま」を通すわが子を「叱りつけて」力によって問題の解決をはかってしまいます。それでもダメと諦めると、「暴力」さえおも用いて「最終解決」をはかろうとする親もいます。
しかし、そのときにこそ、僕はわが子を抱きしめます。それは「有無を言わせぬハグ」であってはなりません。それらの積み重ねが、土壌をつくるのです。


分かり合えない時にこそ、分かり合おうとする努力が必要なように

愛せぬ時にこそ、愛は必要だ

そして、それが、僕が彼女等/彼等に返すことのできる最低限の応答なのです。