本紹介

小泉義之「ゾーエー、ビオス、匿名性」『談』no.71、たばこ総合研究センター、2004

談―Speak,talk,and think (No.71(2004))

談―Speak,talk,and think (No.71(2004))

以下、ゼミでした紹介文(ちょこっと、変更アリ)

おおまかに言えば、近代の「生-政治」とは、ゾーエー(生物種としての生)への配慮として人を生かす政治といえる。近時の中絶・生殖技術・脳死などの議論は、人間のゾーエーとしての生の「生産」(!!)としての配慮でしかない。この意味からしても、ゾーエーは、いやおうなく匿名のものとして扱われる。
その情況を前提として、小泉は、逆に、ビオス(ある人個体の生)への配慮を救い出すためには、まずは、ゾーエーへの配慮を再考する必要があると主張している(ようだ)。(公共性の"open"という側面に関わる重要な論点だと思われるが、)小泉の挙げる具体例で印象的なものは、出生前診断・選択的中絶についてである。「率直に言います。私は、障害者がたくさん生まれた方がいいと思っています。その方がよほどまともな社会です。街路が自動車によってではなく、車椅子や松葉杖で埋められている方が、・・・よほど豊かな社会だと思います」という言明は、開かれた社会やあまねくビオスへの配慮の第一歩かもしれない。「生-政治」という局面では、(匿名の)ゾーエーとして立ち現れる種種多様な生命の排他的なより分けではなく、全てに開かれた、受け入れからビオスへの配慮を復権する社会を描いている(のではなかろうか)。

なお、ビオスとゾーエーの定義等については、齋藤純一『公共性』pp.57-61を参考にした。また、"open"を意識した議論をする小泉にとっても、生を与えるというパターナルな行為について、結局「排他的に」肯定している点は、"open"の非徹底(むしろ矛盾か!?)である可能性を思考の隅に残しておく必要があるかもしれない。