言うべきことが何も思い浮かばない件について

決断が動物化の果てにしか存在し得ないのであれば、その決断の責任を取るということは、何をし得ることなのか。
もしくは、そもそも、ベンヤミンデリダの路線で言えば、ピュアで神的な責任の取り方を想定することはできないのであれば、不祥事が起こって「偉い人」が頭を下げているのを見て、またやってるよ、と怒りのような諦めのような気持ちになるのも説明がつくような気さえする。
責任なんて事後的に取ることはできないのに、事実上責任は引き取られたことにならなければ収まりがつかないのだから。
しかし、なんだか、怒りが起こってしまうということは、どこかでピュアで神的な責任の取り方を待望してしまっているのかもしれない。