memo

pp.44-45

 我々がデリダとともに確認しておきたいのは、この「0」の意味についてであった。もしフッサールのこれまでの記述に忠実であるなら、「0」というこの不在や否定さえ、アプリオリに、そしていかなる発生にも先立って可能でなくてはならず、その「意味」の統一性もすでに我々に与えられていなくてはならないであろう。我々が確認したいことは、フッサールの語るあらゆるものは、「いつも-すでに」意味によって十全に包み込まれているということであるが、そのとき知りたいのは、そうした語り口で、発生の問題、たとえば、意味の発生を本当に語ることが可能なのであろうかということだ。意味の発生は、いつしか、発生の意味となり、いかなる発生の問題も意味の反復とはならないだろうか。

どういうこと?(タブン、ほとんど要約にはならないけれど、とりあえず書き留めておこう。)
「意味の発生」を語る。>>意味の発生とはなにか。>>いや、ちょっと待てよ。発生ってどんな意味だ。>>あれれ??意味の発生を語りたいのに、発生ということの意味を定義しなくては語りだすことができないぞ。>>いやいや、待て。ここにおいて、その「発生の意味」が発生しているではないか。>>いやいやいや。その発生は、どんな風に現せばいいんだ??(=どんな意味か)
この現象が、「意味の反復」ということだろうか。

いやいや、違うか!?「『発生の意味』が発生している」ととらえるのではなく、「『発生の意味』とは、いかなる意味か」と問い返さざるをえなくなることで、(延々と)意味を問い続けることになってしまうのが、「意味の反復」か??

ベーシック・インカム

バイトの準正社員的な先生(塾長>>準正社員>>バイトという力関係の個人塾)が入院することになった。個人塾ゆえに、一人欠員が出るだけで大変な影響がある。さきほど、塾長より連絡があり、当分の間、シフトが大幅に変更されて、勤務時間が長くなりそう。個人的には、収入が増えるのでありがたいが、一日も早く回復されることを願っている。

と、いうわけで、ベーシックインカムに思いをはせるわけだが、BIは医療保険については、どんな議論をしているのだろうか。単純な比較で、重病の人と健康な人を想定においても、日常生活で基本的に(それこそベーシックに)かかる費用が全く違うはずである。みんな一律のBIでは、形式的平等は実現できても、人それぞれの事情を考えなければ、全く保障されていないのとさほど変わらぬ生活を強いられる人も出てくるだろう。それでは、BIの良さ*1が全く発揮できないだろう。そういう議論はベーシックインカムの文脈では、なされているのだろうか??

*1:もっと適切な表現はないものかしら