memo

pp.44-45

 我々がデリダとともに確認しておきたいのは、この「0」の意味についてであった。もしフッサールのこれまでの記述に忠実であるなら、「0」というこの不在や否定さえ、アプリオリに、そしていかなる発生にも先立って可能でなくてはならず、その「意味」の統一性もすでに我々に与えられていなくてはならないであろう。我々が確認したいことは、フッサールの語るあらゆるものは、「いつも-すでに」意味によって十全に包み込まれているということであるが、そのとき知りたいのは、そうした語り口で、発生の問題、たとえば、意味の発生を本当に語ることが可能なのであろうかということだ。意味の発生は、いつしか、発生の意味となり、いかなる発生の問題も意味の反復とはならないだろうか。

どういうこと?(タブン、ほとんど要約にはならないけれど、とりあえず書き留めておこう。)
「意味の発生」を語る。>>意味の発生とはなにか。>>いや、ちょっと待てよ。発生ってどんな意味だ。>>あれれ??意味の発生を語りたいのに、発生ということの意味を定義しなくては語りだすことができないぞ。>>いやいや、待て。ここにおいて、その「発生の意味」が発生しているではないか。>>いやいやいや。その発生は、どんな風に現せばいいんだ??(=どんな意味か)
この現象が、「意味の反復」ということだろうか。

いやいや、違うか!?「『発生の意味』が発生している」ととらえるのではなく、「『発生の意味』とは、いかなる意味か」と問い返さざるをえなくなることで、(延々と)意味を問い続けることになってしまうのが、「意味の反復」か??