大学にまつわる

先日、tamuraさんより貴重なコメントをいただきました。そのコメントをある意味出発点として、大学にまつわることを考えてみようと思いました。(コメントに対しての返答という意味合いも含めつつ)

 個人的にはいっぱい授業やるのはイヤですけど、画像を撮るのはもっとイヤです。「だったら一人で本読んで勉強して」という感じ。「何を伝えたいのか/伝えるべきと考えるか?」によって、収録画像をどう評価するかが決まるんじゃないでしょうか。「受験対策」なら、間違いなく画像でも十分と思います。

というのが、そのコメントだったわけです。(どんな文脈でのコメントだったかは、25日のエントリを参照してください。)
ボクは、そのコメントの中でも特に、「何を伝えたいのか/伝えるべきと考えるか?」という部分が重要な指摘だと考えました*1

はてさて、「何を伝えたいのか/伝えるべきと考えるか?」というのは、もちろん先生によって違いがあると思いますが、その問題の前にまず、「大学」という制度は、学生に対して、「何を伝えたい」・「伝えるべき」としているのでしょうか。この問いがまず、総論として答えられる必要があるように思われます。
これは、「大学がどのように自己を定義するか」ということだと思われます。


それと同時に問題になるのは、大学が発信するものを受信する側としての学生についてです。学生は、一体何をするために大学に居るのか。何を受け取りたいのか。受け取るべきと
考えているのか(はたまた、「受け取るべき」とまでは考えていないのか)。このような問題もあるでしょう。


さらには、大学が伝えたいとしている「何か」と、学生が受け取りたいとしている「何か」がぴったりと重なっているとも限らない、という問題さえあるでしょう。



と、とりあえず問題をつれづれと書き留めておきました*2。このような問題について考えてみると、今はまだ漠然としたイメージでしか表せませんが、大学という「制度」が、なんだかとても「ありそうにもない」ほど不安定な関係の上に成り立っているような気がしています*3。また後日、自分なりの答えを考えてみようと思います。

*1:これは、25日のエントリでは、収録画像による講義の是非という文脈の中でのお話ですが、大学という「制度」について考えるときにも、重要な指摘だろうと考えたのです

*2:色々な答えるべき問題を差し置いて、25日のエントリのような、「講義形態」だけを論じていてもいけないかなぁと、思いました。

*3:それが「何か」を書かないといけませんね、ホントは、、、