特に意味はないが、何もせずに消してしまうのはもったいないなぁと思ったので残しておく

その時に、思考の手助けになるのは、デリダの「散種」だと思われます。エクリチュール論において、以下のような例が挙げられます。「何の違いがあるWhat's the difference?」というエクリチュールを、コンスタティブconstativeに解釈すると、違いの内容を問うている文となります。一方で、パフォーマティブperformativeに解釈すれば、「違いなどない」と違いの存在を否定するものとして解釈できます。そして、重要なのは、「そのどちらの解釈をすればよいのか」ということを原理的に決めることができないということです。しかし、ボクたちは、何かしらの解釈をしてしまう。そこで「散種」なのですが、原理的に決定不可能な決定をしてしまうがゆえに、その捨てられた可能性をさしはさまざるをえないということのようです。

ボクは、二つの位相に生きています。一つは、今生きているボク①。もう一つは、今、生きていなかったかもしれないボク②。なぜ、その二つの位相が必要だったかというと、ヒュームの禁則に近いのかなぁとは思うのですが、今、ボクたちが生きていること、つまり、ボクたちが生き始めさせられたことと、ボクたちが、誰かを生き始めさせてもいいということは、論理的に接続されないことと考えています。
とりあえず、ボクが危機感を持つのは、大概の言説は、①の位相の人間が、②の位相の人間に与える力(影響力、暴力、などなど)にあまりに無頓着だということです。いやいや、無頓着なのは、ボクだけで、他の人たちは、注意を払いつつ諸決定を下しているのかもしれませんが。