公権力による少子化対策は、
ゆるされうるものなのか。
生き死にを他人に決められて黙っていられるのはなぜか。
始まりの点に固執した考え方ではなく、過程(かてい/家庭/仮定/課程/下底///)を含められればよいのかもしれないとも思ったが、やはり、始まりが始まらなければカテイは生じないのであって、むしろ、今までの議論は始まりを陰殺した上で「カテイ万能主義」におちいる危険と隣りあわせで、始まりを論じられなくなってしまう、功罪含め。
そろそろ始まりの議論を真剣にしなければならないのかもしれない。もちろん、不可能だが。
傷つけますけど、アタシのために、傷つかなかった体でいてくださいね。
という含意だし、
責任なんて取れませんよ
という含意だし、
もちろん、アタシは、冗談しか言わない。