「単純に泣くだけに泣いたことってありますか」

正確にいえば、そうなるための訳も理由もあるんですけど、でも泣いているその瞬々間々には、もうどんな理由づけもかなわなくて、ただ悲しい感情だけがさらさらと涙を押し流していくんです。
それでも回転する脳みそは、必死に理性による説明のために理論をこしらえようとして、ヌチヌチと理路の断片が練り上げられてはくるものの、なんだか妙に気持ち悪くて、ウッてなってしまう。煩くて煩わしくなって、他方の脳みその働きでどんどんメモリ上から掃き出してしまう。そんなことが超瞬間的に行われ続けることで、見かけ上、理由もなにも無くただ涙が流れ続けるんです。


今、筆をとれないのも、同じような状態なんじゃないかなって思うんですよ。構図やらなにやら、どんどん組み上げられつつも、ウザガルもう他方のやつが、そのたびに掃き出しているから、結局なにも生み出さず、何も描けない。そんな平衡にいつの間にかはまってしまったのではないかと思います。


ただ、これが必ずしも悪いことでもないようにも思っています。
最近ずっと感じていたのですけど、そうすべきものなんてないんじゃないかって。
若いうちは、自分の想うように描けずに悩んで、やり続けるうちに下手でも継続は力なりで、それなりの仕事ができるようになってきた。そうこうしているうちに、最初に駆動の原動力だったはずの、こう描くべき、こうしたい、こう変えたい、みたいな想いってものが雲散霧消してしまったような、もっといえば、痕跡さえ思い出せないようで、むしろ何もなかったものに痕跡があるほうが可笑しいじゃないかとさえ考えるようになる。この歳になって、いまさら情熱でもないかもしれないけれど、そんな無根拠に信じることを怖いと感じ、責任とはアルシュ、マハンタイの何かがすっぽりと抜け落ちてしまったんだと思います。それで、何もしないという無責任に陥ってはみたものの、無自覚に無責任であるよりは少し居心地のよい場所にいるんです。無知の知みたいなものですか、もちろんこれも無根拠なものですけど、まだ少しはましかと、考えて止まない、そんな半無限ループにすっぽりと逆にはまってしまっているのが現状だと思います。