会いたくて

愛してるとも好きだともいえないぼくが、子供に会わせて欲しいと頼む権利があるんだろうか

言論の自由があるから、言論を暴力で抑圧する行為は卑劣であると、ぼくがいうと、子供にこういわれてしまった。
では、その言論の自由によって決まったダブルクウオーテーション付の結論が執行されるのは、同じ意味で反対意見を持つ人への(言論の)自由を抑圧する行為ではないということですか。
ぼくは、ちょうど29分考えてから、答えずに答えた。
結論がでるまでの言論のルールしか、ぼくたちは決められない。
レスポンスは予想以上に速い。
たぶん、時間性の問題ですね。結論がでるまでの経過に、イノセンスを適用し、無暴力性を信じる。結論が出た瞬間から先ほどの瞬間的な結論が経過としての荒れ狂うフォルスとなることを、結論が出るまでの経過には、まるで思いつきさえしないかのように振舞う作法のことを、とりあえずの言論の自由と呼ぶ以外に、言論と結論とその結果としての暴力性を定義できていないのが今である、ということですね。